IZURU KUMASAKA

熊坂 出

短編小説「さらばアンサツシャ」
全5回
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さらばアンサツシャ

 健太の病室にうううううおじいちゃんいなかった。健太が言うには昼前に退院したのだそうだ。
 なーんだ。
 ベッドの上の健太が半身を起こしてノートを読み上げた。
「大会に出ることは1年も前から楽しみにしていました。だけど盲腸になってしまいました」
「待って」
「なに?」
「盲腸じゃ弱い、マッキガンとかの方がいいよ」
「そっか!」
 健太が「盲腸」を「まっきがん」と直して続ける。
 香は向かいの病室のバカダネを見ながら、健太の声に集中した。

   だけどまっきがんになってしまいました。だから、本当にむりを承知の上ですが、この病室で大会予選を何とかやらせてもらえないでしょうか? アサシンモンスターカードゲームは僕の人生そのものです。僕はこの病気をなおして人生をとり戻せると信じています。だけど、11歳のしょ夏に行われたアサシンモンスターカードゲーム大会は取りもどせません。大会に出られなかった残りの人生なんて、まるで蝉のぬけがらみたいになってしまうと思うんです。そんなの人生とは言えないです。僕は短くてもいい太く生き抜きたいのです、9月のアブラゼミみたいに。

 健太は手紙を二つに折って言う。
「ダメダメダメ。こんなの意味ない。絶対やってくれるわけない!」
「ちょっと待って」 
「なに?」
「私が書いて送ったらどう?」
「香が?」
「私の友達が末期がんになってしまったんですって」
「そっか!」
「信憑性が高まるよね?」
「シンピョウセイって? あ、でもちょっと待って」
「なに?」
「やっぱり駄目だよ」
「…なんで」
「オレ、自分で書くよ。自分のことだから」
 香は胸がキュンとなった。

 健太の家は奇しくも香が住んでいた識名のアパートから歩いて3分位のところにあって、香のお気に入りの屋上がある理子のアパートの隣の隣の隣にあった。沖縄のアパートは広いし健太の住んでいるアパートもやはり広いけれど、12人家族の宮里家にはとても狭い。アパートの3階に健太の家はあって、錆びた三輪車や割れたプラスチック製のバットや古雑誌が玄関先に山積みになっていて、その玄関戸は深夜でも留守でも常に10センチ程開いていた。
 健太は8人兄弟の末っ子。長男は25歳の時に内地で就職したきりほとんど沖縄に帰って来ないので、健太もあんまり会った事がない。他に4人の姉と2人の兄がいる。両親は共働きで家にいない事が多く、今回の手術入院も俊太に年の近い中学二年生の姉のマリが付き添った。
 健太の7日目の入院生活が始まる3時間前、夜の9時。
 消灯時間。
 健太は窓辺に立って、向かいの病棟の窓辺のバカダネを見ている。
 やがて向こうの窓明かりが消え、バカダネも闇に消える。
 健太は振り返って、うううううおじいちゃんがいたベッドをちょっとだけ見て、ベッドの中にもぐりこんだ。

「でも確かにおかしいわねえ」とスミレが言った。
「どうして?」と香は聞く。
「盲腸は私も大学生の時にやったけど、どんなに遅くても1週間でおならは出るって聞いたから」
「そうなの?」
「盲腸って言ってもね、けっこう大変なの。健太はお腹開いたって言ってた?」
「お腹開くって?」
「手術でお腹を開けたかってこと」
「わかんない」
「もしお腹開いたんなら、手術後はすごい体力なくなるのよ。それでもお医者さんがね、とにかく動いてください動いてくださいって」
「ふーん。でも健太、元気だよ」
「じゃ開いてないのかしら。でもそんなに入院してるってことはやっぱり開腹手術してるわよね」
「1週間でおなら出なかったらどうなるの?」
「別の病気の可能性が出て来るわね」
「どんなの?」
「家庭の医学で調べなさい」

続く

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