IZURU KUMASAKA

熊坂 出

短編小説「羽ばたくシガイ」  重松清さんからの推薦文はこちら
全5回
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羽ばたくシガイ

 リオと香は児童館には寄らず、香の家で遊ぶことにした。リオの家は兄弟が多くてアパートで狭い。香の家もアパートで狭いけれど香とスミレしかいないから広い。スミレは車で方々のカフェに出かけて行って「本」を書いていて、いつも大体夕方の6時くらいに帰って来る。それまでは香一人。
 香とリオは大城商店で買った折り紙で鶴とか亀とか熊とかを作って遊ぶ。テレビで「あたりまえ体操」をやっている。「あたりまえ体操」はCOWCOWという名の芸人コンビの芸で、沖縄でも大人気。香とリオは2人で「あたりまえ体操」を歌いながら折り紙を作る。香はすごく気分がよくなる。
「花子の目が物もらいになったのはさ、高里に目をなめられたからってよ」
 と、リオが歌うのを中断して言った。
「火曜日の放課後さ、皆帰った後、教室で高里と目をなめあいっこしてて、そしたら仲村渠なかんだかりに見つかったんだって」
 私は男子と付き合っても絶対目はなめないし、なめさせないけど、とリオが言う。そして話題を戻した。
「鶴の恩返しでさあ、おばあちゃんは、見ちゃだめだよって言われてたのに、見るさね?」
「うん」
「それで覗いたら女の人は鶴になってて、なんで見たんですかって悲しそうにおばあちゃんに言って、自分の国に帰るさ?」
「うん」
「おばあちゃんは見たいっていう気持ちに勝ててたらさあ、部屋を覗かなかったらさあ、女の人と幸せに暮らせてたよね」
 香は反論した。
「でもさ、どっかでおかしいって思ってたんでしょ、おばあちゃんは。だからもし部屋を覗かなかったら、ずっと気になって気になって幸せどころじゃなかったと思うよ」
 リオは、うーん、と口に出さずに、うーん、と言った。
「その内、気にならなくなったんじゃないの。うちのお父さんすぐおならするけど、お母さん全然気にならないって。最初は気になったけど今はもう諦めたって」とリオが言う。確かにそうかもしれない、と香は思う。

 ――でも、やっぱり死体を見てみたい。

「ねえ、やっぱり行こうよ。リオだって興味あるんでしょ」と香はねだってみる。
「いかない」とリオは即答する。
「意気地なし」と、香は俊太と同じ言葉で戦う。
「意気地なしでけっこう、まったくもって問題なし」
 リオは男前にそう言った。そして折り紙を止めてテレビの前で「あたりまえ体操」を始めた。香は「あたりまえ体操」しているリオの背中を見て、「リオはくるっと私に背を向けて遠くに走り去って行った」と思った。
 香はリオを諦めた。

 早く日曜日にならないかなって思う私と、日曜日は来ない方がよかねんと思う私とで授業どころじゃなくなると香は思っていたけれど、那覇に引っ越して来てからは、いつの間にか学校の授業なんてもうどうでも良くなっちゃっていたと、香は今、気がついた。
 明日、私は本当に人間の死体を見られるのかな? 私、死体なんて本当に見たいのかな? なんか私ものすごく間違ってる気がしてきた。リオは今頃どうしてるかな。エグザイルのダンススクールで疲れ果てて、やっぱりスヤスヤ眠ってるんだろうな。だって、エグザイルのダンススクールで特待生に選ばれたって言ってたし。リオは私のいない世界で私の知らない友達や高校生達とコミュニケーションをとっていてリアルにジュージツしてる。
 香はそう思うと寂しくなってすごく不安になってきた。そんな香は今、スミレの部屋の前にいる。スミレは今この扉の向こうで眠っている。12歳になったら部屋を別々にしてと言って、それを前倒ししてもらったのは香。香は、母親の部屋の扉を開けられない。

 日曜日。香は識名から那覇中央病院までチャリを走らせる。「沖縄は雨が多いから全然チャリに乗らないんだって」とユリは言っていたけれど、それは間違いだと沖縄に来てすぐに香は気がついた。確かに大人達はチャリに乗らないし歩きもしないし全部車だけど、子供は違う。今度ユリにLINEで教えてあげなくちゃ、と香は思った。
 那覇中央病院には香は今までに3回しか行ったことがない。バアバが入院した日と、バアバをお見舞いに行った日と、バアバが死んだ日。病院は与儀公園の近くにあって、香は超ダッシュでチャリを走らせる。信号待ちで自転車を止める。風がなくなって、またムワッと暑くなる。でもまだ大丈夫、と香は思う。8月になったら暑いどころか痛い。とてもじゃないけれど太陽が日を弱くしてくれる夕方までは家を出られなくなる。
「おせーよ」
「ごめん、寝坊した」
「いつでも見られるわけじゃないんぞ」
 ただでさえ息切れしてるのに俊太と会った途端、香は余計に息苦しくなった。心の中が息苦しいんだと、少しして香は気がついた。今更というか、もう来たことを後悔した。

 俊太はロボットみたいなギクシャクした歩き方をする。ギクシャクギクシャク、どんどん前へ前へと歩いていく。香は俊太の背中を追う。香は病院をなるべく見ないようにする、後ろめたいから。香より背が低くて足の短い俊太に香は置いてかれ、5秒に一度、小走りになる。苦しい。なんだか取り返しのつかないことに向かっている感じがする。俊太の背中とリオの背中は男と女だし身長も体重も生まれた場所も育っているところも全然違うはずなのに、どこか似ている、と香は思う。でも背中は皆似たようなものなのかもしれない、と香は思う。
 俊太は病院の正面玄関から堂々と入って行って、待合室のソファのおじいちゃんやおばあちゃんには見向きもせず受付の前を通り過ぎる。俊太は立ち止まらずにそのまま長い廊下を歩いて行く。右側にある自動販売機の前でこっちをじっと見ている小学生の兄弟がいる。左側の扉が開いて白衣のお兄さんみたいなおじさんが出てきて香達には見向きもせずに通り過ぎて行く。俊太も見向きもしないでどんどん前へ前へと歩いて行く。俊太が廊下の突き当たりの扉を開ける。外の風景が長方形の形に現れて俊太はその中に入っていく。
 外に出ると、またムワッとなった。俊太は外に出てすぐ建物沿いに右に曲がって姿を消した。香は急いで俊太の後を追う。俊太と香の左手には病院の駐車場があって、軽自動車がいっぱい止まっている。大きな室外機が沢山並んでいるところを通りかかって、香の右側の空気がますますムワッとなった。
 俊太が止まった。天井の高い搬入口があって、あそこだ、と俊太は言った。
「玄関から死体を運び出すわけにはいかないだろ? 葬儀屋があそこで死体を棺桶に入れてお通夜とかにつれてくんだ」
 俊太が続ける。
「死体を運び終わった担架はまた死体安置所に回収される。あそこにたまってるだろ?」
 見ると、2台のワゴン車みたいなものが搬入口の中に停まっていた。ワゴン車は二段ベッドのようになっていて、上はベッドになっていて下にはくしゃくしゃっとしたシーツが置いてある。香は脱力した。腰が抜けるってこういうことか、と香は思った。
「どうした」
「なんか死体を運んだものがあんなところに置いてあるのが…なんていうか」
 俊太は笑った。
「そういうもんだ。慣れるんだよ。医者なんてな、ひどいもんだぞ。もう助からない患者とかだと、ろくに病室にも行かないで看護師に『心肺停止したら呼んで』とか言うんだぞ」
「シンパイテイシってなに?」
「心臓が止まって死ぬってことだよ。でも、死体を乗せるストレッチャーと患者を乗せるストレッチャーは区別してるんだから、この病院自体は立派だよ。安置所もでかいしな。ただ、遺族への配慮がちょっと足りない作りになってるけどな」
 俊太が香を見て笑いながら話す。香は俊太を見る。
 俊太はなんでこんなに背伸びしてるんだろう。私は蝶のシガイを持って真琴を追いかけ回すような子供っぽいところがあるけれど、大人びている、とよく人に言われる。リオのお母さんにも言われたし、真琴のお兄ちゃんにも言われた。でも背伸びはしてないよ。だって疲れると思う、そんなの。性に合わない。賭けてもいいけど、中学に上がっても私は煙草を吸わないし、男子の目をなめない。じゃあ、なんでここに来たの、私。
 香はそんなことをぼんやり考えた。
「どうするの?」
「にぶいな、あのシーツの下に隠れて忍び込むんだよ」
「死体に被せてたシーツに?」
 意気地無し、と俊太が言う。お前も所詮女だな。もうちょっと勇気あるかと思ったのに。俊太が香を見て笑う。変な菌とか病気とかはうつらないの、と香は心配になって尋ねた。
「無知だなあ。病院の死体ほど綺麗なものはないんだぞ。お通夜に来た人たちが皆顔触ったりするだろ? 綺麗に消毒されてんだよ」 「でもあれ、使用後じゃないの? それに絶対ばれるよ」
「いいから行くぞ」
 俊太が音を無くして歩くように走りだした。

 看護師が一人やって来て二台のワゴン車を移動し始めた、と香は暗闇の中で感じとった。ワゴン車の暗闇の中で、二台のワゴン車を右手と左手に片手ずつ引っ張って行く。看護師は香達が乗っていると全然気が付かないようで、一度も止まることなくワゴン車を押して搬入口から建物の中へ入っていく。香は周りの音が変わるのを感じとった。しばらくして止まった。それでまたしばらくしたら、フーッっていうかウィーンっていうかそういう音がして、ちょっと進んでまた止まった。そんな風に香は粒さに音の変化と自分の移動を感じとった。
 まるで私は夜に寝かされた大きな耳みたいだ、と香は思う。狭くて小さいワゴン車の中の深くて広い暗闇の中にポツンと置かれた大きな耳。ざわざわしてた音がシーンとした音に変わる。何かをカチッと押す音がして、またフーッと音がする。シーンとした音がさらにシーンとなる。何も見えなくても音とか気配とかでエレベータだと分かる。エレベータにはエレベータの気配があるんだと香は思う。
 ふと、香は今の状況にドキドキしてることに気が付いた。今の香には3分前の香にはなかった余裕がある。看護師は私達に全然気が付いていない。後になって香が俊太に聞いてみたら、病院内の死体安置所ってのはあんまり使われることはないし、看護師だって来たことがない奴の方が多い、と俊太は言った。死体用のストレッチャーの重さを知らないから、俺達の体重に気がつかない。でもな、本当の所はそうじゃない。看護師は幽霊が怖いんだ。だからストレッチャーがなんか重いなって思っても、自分の想像力が働かないようにすぐにシコウテイシするんだ。俊太はそう言った。でもそれは結局全然まったくそうじゃなかったんだと、香は後で気づくことになる。
 エレベータを出た後、看護師はワゴン車を押して長い廊下を歩いた。そして立ちどまった。ポケットから鍵を取り出して、カギ穴に入れてカチャッと回す音が香には聞こえた。廊下の脇に扉があって、そこから誰かが出てきて扉を開ける。お兄さんではなくて、おっさん。足音で分かる。すごく重い扉を開けている感じがする。ワゴン車を押す人が2人になる。女と男。声で分かる。電気をつけた。俊太が入っているワゴン車を看護師が押して、香のをおっさんが押す。つーんとミントみたいな薬の臭いとヒンヤリした空気がワゴン車の暗闇の中に入って来るのを香は感じとった。ミントは香から余裕を奪ってどこかへ持ち去ってしまった。
 ワゴン車が停まって、ぐいっぐいっとバックし始めた。香は体が揺れないように両手でワゴン車の板敷を強く押さえるように踏ん張った。香は耳から人間に戻っていた。
 ワゴン車が停止したのを香は感じとった。ワゴン車から2人が離れて行き、室内の電気を消すカチッという音がして、扉が締まる音がした。隙間から差し込んでいた光も全部なくなって、ワゴン車の中だけではなくて外も真っ黒になったと香は感じた。
 カチャッ。鍵がかかる音がして、フーっという空調のような音だけになった。もし今シーツを取り外したら、自分の体と外の世界の境界がなくなっちゃうと香は思った。俊太がシーツを外してワゴン車から降りた。香は俊太の声を待った。
「出てこい」
 俊太の声が聞こえた。

続く

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